top of page

『最高機密』~歴史の扉を開けた男たち~<33>最終回

GRU大佐オレグ・ウラジミロビッチ・ペンコフスキー。歴史の扉を開けた男たちの存在が正史に刻まれることはない。


エピローグ ルビヤンカ


求めずして見出されることの多いものだが、

兵士の墳墓こそ、おまえに最善のものだ

はるかに見わたし、ふさわい地をえらび

大いなる憩いにつけ。

                          ジョージ・ゴードン・バイロン


3 「伝説(レジェンド)」


 キューバ危機の表舞台の主役だった二人にも、過酷な運命が待ち構えていた。


 ケネディは、一九六三年十一月二十二日、遊説先の米テキサス州ダラスで、凶弾に倒れた。ケネディ暗殺は、オズワルドの単独犯行とされているが、オズワルドも逮捕後、衆人環視の中で射殺されており、真相は封印されたままである。


 暗殺の背景には、軍と軍需産業の総称である「軍産複合体」との確執が指摘されている。「戦争」が商売の彼らには、「戦争」をしない大統領は、邪魔である。それが、キューバ危機を通じて、彼らには、はっきり分かったのである。


 聖域である自らの組織にメスを入れられたCIAの中にも、反ケネディの感情が根深く存在していた。ケネディの手で解任された前長官アレン・ダレスの怨念も渦巻いていた。


 軍産複合体とCIAには、ケネディを「排除」する相当の理由があったことになる。


 ケネディが、軍が主張する即時軍事行動を放棄する決断をしたのが、確執を決定的にした。ケネディにこの決断させた最大の理由が、ペンコフスキーのもたらした情報である。世界を核戦争の破滅から救った情報が、自分の運命を左右することになるとは、ケネディも知る由はなかった。歴史の皮肉である。


 ケネディの凶報を知ったフルシチョフは、モスクワの米大使館に弔問に訪れた。フルシチョフは「我々は、和解はできなかったが、共通の言葉を発見した。彼は、我々と正反対の立場にいながら、偉大な柔軟性を示した。彼は、我々の信頼に足るべき人物だった」と深い哀悼の意を示した。


 しかし、フルシチョフの命運も、風前の灯火だった。レオニード・イリイチ・ブレジネフが、虎視眈々と最高権力者の座を狙っていたのである。


 一九六四年十月十三日、黒海沿岸のソチにあるフルシチョフの別荘に、モスクワから一本の電話が掛かってきた。電話口の党幹部会長老スースロフは、至急クレムリンに戻るように告げた。それが、政変の始まりだった。


 幹部会は、既にフルシチョフの解任を決めていた。十四日、モスクワに戻ったフルシチョフを待っていたのは、仕組まれた党幹部会、党中央委員会の緊急会議だった。


 相次いで開かれた会議は、フルシチョフの十一年間にわたる内政・外交政策を失敗と決めつけ、圧倒的多数でフルシチョフの解任を決議したのである。


 「フルシチョフは、ソチの別荘から、KGBの将校に強制的に連行された」とも伝えられているほど用意周到なクーデターだった。


 失脚後のフルシチョフは、モスクワから約三十キロ西にあるペトロヴォ・ダーリニー村の別荘で、晩年までを過ごした。別荘は、KGBによって厳重に監視されていた。


 公には、キューバ危機での敗北、平和共存路線が「弱腰」と批判されたことが、フルシチョフ失脚の大きな要因になったとされる。だが、ペンコフスキーの事件が、ブレジネフによるフルシチョフ攻撃の最大の材料となったのは言うまでもない。


 ブレジネフは、軍とGRU、KGBの改編・強化を徹底、米ソは、再び長い軍拡、対立の「冬の時代」を迎えることになるのである。

                 XXX

 米国の幾多の英霊が眠る国立アーリントン墓地にあるケネディの墓碑には、永遠の炎が灯され、花束が常に供えられている。ソ連でも、フルシチョフの墓碑は、レーニン、スターリンと並んで献花が絶えることはない。


 だが、ペンコフスキーと「戦友」たちの存在を知る者はいない。彼らが、米ソ全面対決、全面核戦争の脅威から世界を救ったことは、歴史のどこにも記されていない。指導者たちの回顧録、回想録にもペンコフスキー、そして「戦友」たちの名前は登場しない。彼らの存在は、これからも決して、陽の当たる表舞台に出ることはないであろう。インテリジェンスに関わる者の間で、ただ「伝説(レジェンド)」として語り継がれていくのである。


(World Review 編集長 松野仁貞)


תגובות


© Copyright
bottom of page